代表インタビューInterview
【第4回】政治家を断念し、派遣会社を創業。度重なる経営危機に会社を守るために手を尽くした
人材派遣会社エヌエフエーを知るための社長インタビューの第4回。
第3回の記事では、夢だった政治家になるチャンスだった衆院選への出馬を断念した理由、そこから人材派遣会社を立ち上げた経緯を聞きました。
今回はエヌエフエー創業し後、リーマンショックなど数々の危機に直面したこと、それを乗り越えた方法などを紹介します。
(5回連載の第4回)
―― それまで経営コンサルティング事業を行ってきた東大阪ではなく、東京・大田区でエヌエフエーを創業した理由を教えてください。
新卒で入社した東京の会社を辞めて東大阪で経営コンサルタントとして独立したのは、選挙に備えて地元で地盤を固めておくためでした。ですが政治家になるのを断念したことで、東大阪にこだわる必要はなくなりました。東京で新宿や渋谷の人混みを見ていると、「ここでビジネスで成功したい!」という気持ちがわいてきたんです。
もともと仕事で東京に出張する機会も多く、東京の西馬込に拠点として借りていた部屋があったのですが、ちょうど近くに手頃な家賃のオフィスが見つかりました。大田区と東大阪は「ものづくりの町」という点で共通していて、街の雰囲気も少し似ていた。そこで大田区で創業することにしました。
―― コネクションがほとんどない土地で、初めて人材派遣業に取り組むとなると、苦労も多かったのではないですか。
最初はコンサルタント時代のお客さんを訪問し、人材派遣は必要ないか聞いて回って地道に派遣先を開拓をしていきました。苦戦はしましたが、少しずつ仕事が増えて派遣実績ができると次の仕事が獲得できるようになり、次第に波に乗りました。派遣先は当初はコールセンター中心でしたが、物流センターにも派遣を拡大し、創業2年目には年商は約2億3000万円になりました。
―― そこまで急成長できたのは、何か戦略があったのでしょうか。
順調にいった一番の理由は、単純にタイミングが良かったからですね。会社を立ち上げた2006年はリーマンショックが起こる前で、日本は好景気に沸いていました。どの職場も人手不足だったため、こちらが必死に営業活動をしなくてもホームページ経由で次々と問い合わせが入ってきたんです。
あとは派遣先の選定も、良かったと思いますね。一般的に人材派遣というとオフィス事務のイメージがあると思いますが、オフィス事務の場合、一つの職場に派遣するのは数人です。一方、コールセンターや物流センターは大量に人を必要としているため、派遣人数も多くなります。そこでコールセンターのような労働集約型の派遣先を積極的に開拓していったんです。それが功を奏し、売上が伸びていきました。

―― 滑り出しは順調だったようですが、2008年9月にはリーマンショックが発生しました。ビジネス環境も大きく変化したのではないですか。
リーマンショックが起きてすぐのタイミングでは、まだ契約期間中の派遣先が多く、あまり影響はありませんでした。ですが多くの派遣先が契約更新を迎えた翌年3月、一斉に「契約更新なし」という連絡が届いたんです。状況は一変、売上は2カ月で6割も減りました。まさにフリーフォール状態です。派遣先が減れば、派遣できる人数も減ります。働きたい人はいるのに、派遣先をアレンジできない状況が続きました。
もちろん黙って手をこまねいていたわけではありません。契約更新時期を前に営業は強化していました。でも新規の仕事はほとんど獲得できず、一方で懇意にしていた派遣先との取引すらなくなっていきました。倒産してしまったところも多かったですね。早朝に派遣先に出勤したスタッフから「職場にカギがかかっていて入れない」という電話があり、派遣先が夜逃げしたことが判明したケースもありましたよ。当然、派遣料金は未払いです。
どんどん会社が傾いていき、「あと半年持つかどうか」という状態まで追い込まれました。
―― 厳しい状況をどのように乗り越えたのですか。
ともかくすべてを小さくしていきました。販売管理費は最小限におさえ、内勤の社員には休んでもらいました。馬込から五反田に移していたオフィスも、家賃が安い大田区・大森に再移転しました。初めて雇用調整助成金も申請しました。
自社の社員にも派遣社員にも働いてもらうことができず、日々苦しかったですね。それでももがき、必死に耐えていたら、2010年ごろから少しずつ仕事が戻り始めたんです。倒産や事業縮小をした派遣先も多く、元通りとはいきませんでしたが、新規開拓に力を入れたことで徐々に業績が回復し、ようやく明るい光が見えてきました。―― リーマンショックから2年を経て、暗いトンネルを脱しました。その後は再び成長軌道にのったのですか。
いえ、そうもいきませんでした。間もなく次のピンチが訪れます。コールセンターを運営していた大口の派遣先で、2000万円の未払いが発生したんです。支払いの遅れが続いていて嫌な予感はしていたのですが、2000万円の未払いは経営に大きなインパクトを与えました。このままでは会社が潰れてしまうと焦りましたね。
またこのコールセンターには多数のスタッフを派遣していたため、コールセンターが潰れると全員が職を失います。それだけは避けたかった。そこでその会社からコールセンター事業を引き継ぎ、自社でコールセンターを運営することにしたんです。
これでピンチを乗り切ったと思った直後、東日本大震災が発生しました。当時、このコールセンターでは大手通信キャリアの光回線のアウトバンド営業を請け負っていたのですが、震災で日本社会に自粛ムードが広がり、通信キャリアから電話営業の自粛を要請されました。コールセンターのスタッフは仕事がなくなり、ほかの仕事をしてもらおうにもどの業界も自粛状態で次がなかなか見つからなかった。一難去ってまた一難でした。
―― 度重なるピンチに、会社を畳もうと思ったことはなかったのですか。
何度も「もう無理かな」と思いましたよ。でもスタッフや派遣社員のことを考えると、ここで諦めるわけにはいかなかった。震災から3カ月ほど経つと自粛ムードもおさまってきて、コールセンターの電話営業を再開することができました。
その後は派遣先を増やしていき、売上は2012年に2億円を回復。2013年には2億4000万円と、リーマンショック前の数字を越えました。2014年には3億9000万円まで到達しました。これを牽引したのがメインの人材派遣事業と派遣先から引き継いだあのコールセンター事業でした。
